私は岐阜県のとある地方都市で、父21歳・母22歳の若い夫婦のもとに長女として生まれました。3歳下に弟、4歳下に妹。三人きょうだいの一番上です。
当時の住まいは、父の勤める陶器工場の社宅。間取りは4.5畳と6畳の二間に小さな台所、和式トイレ(水洗じゃありません)。
お風呂はなく、家族全員、近くの単身寮の共同風呂まで通う毎日でした。
家は狭くて古く、小学校の友達の多くが新築一戸建てに住んでいたこともあり、遊びに行くことはあっても自分の家には絶対に呼べませんでした。
昼間は夜勤明けの父が寝ているため、「家で寝ているお父さん=無職の人」に見えてしまい、子どもながらにとても恥ずかしかったのを覚えています。
実際には父はまじめに工場で働いていたのですが、給料の大半を飲み代とパチンコに使ってしまう人でした。母が働かないと家計が回らない、そんな家庭環境です。
こう書くと、ちょっと悲惨な幼少期のように思えるかもしれません。でも、実際は貧乏ながらも毎日わいわいにぎやかに、兄弟仲良く遊び、笑いの絶えない日々だったように思います。
父は、子ども相手に将棋や花札を教えてくれる、ちょっと変わっているけれどおもしろい人でした。
お正月には私たちのお年玉を賭けさせて勝ち逃げし、「倍にしてくる!」と言ってパチンコに出かけるのが恒例行事。
たまに本当に勝って帰ってきて、気前よくご馳走してくれることもありました(笑)。
そんな父と結婚した母は、懐の深いタイプではなく、いつもカリカリ怒っていた印象が強いです。
けれど今にして思えば、フルタイムで工場勤務をこなしながら、帰宅後はご飯の支度に掃除に洗濯、小さい子ども3人の世話。家事は一切しない昭和の典型的な父と暮らす中で、イライラが募るのも無理ありません。
私が小学校低学年の頃は、夫婦喧嘩が日常茶飯事。あまりの大喧嘩に発展するときは、私が近所のおじさんを呼びに走るほどでした。
母の家出もたびたびあって、三兄弟は当然のように母にくっついて玄関を出るのですが、その瞬間「もう父には会えないのかも」と悲しい気持ちになったものです。
まあ、毎回その日のうちに帰ってくるのですが。
そんな日々を経て、離婚することなく添い遂げた父と母。17年前の父が59歳で亡くなるまで、ふたりは一緒に過ごしました。
今となっては、母には「本当にお疲れさま」と言いたいです。
そして父には—
あの世でいつか会えたら「ありがとう」と伝えたいです。
でも、まだまだ私は元気で長生きするつもりなので、その日はずーっと先でいいんですけどね。
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